仕事がうまくいかないとき、本を読めば答えがどこかにあるんじゃないかと毎日のように本屋に通い詰めて、いろんな本を買っては読んでいた。でも今一つピンと来なくて悩みは止まらない。ですが、「百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術」(CCCメディアハウス)を読んで、そんな自分の認識を改めるきっかけになりました。
本を読んでも答えはない
自分が仕事で抱えてる悩み(難しい仕事、人間関係)なんて、古今東西みんな悩んできたことではないか、それをどうやって解決してきたのか、先人たちが本にして教えてくれているのではないか、だからそういう本に出会えれば、自分の悩みに対する答えにも出会えるのではないかと思っていました。
新宿のブックファースト、渋谷のジュンク堂(閉店になって残念)、東京駅北口の丸善はどれだけ通ったかわかりません。
しかし、たまたま手に取った「百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術」(CCCメディアハウス)を読んで認識を改めました。
本は、答えが入っている箱ではない。読書とは、問いを、自分で言葉にできるようにする、遠回りの、しかし確実なトレーニングだ。(P.93)
問いは、在るのではない。答えは、探すものではない。
問いも、答えも、自分が創るものだ。
それを可能にするのは、読書だけだ(同)
どこかに答えはあるはずだ、そういう考えだと問題はいつまでも解決しない。いくら似たような問題を誰かが経験していたとしても、それがそのまんま自分にあてはまるわけではなく、どうやって解決していけばいいのかは結局自分で考えて創っていくしかない。
そのために、自分の悩みの本質的な課題は何なのかを読書を通じて考えることが必要だと考えるようになりました。
読書は、問いを獲得するためのトレーニング
仕事で資料を作ったり、社内のメンバーに説明をする場面では、わかりやすさを何よりも求められます。
- 結論から先に言え
- 根拠は最大3つまでにまとめよ
- 中学生でもわかる内容にせよ
自分がアウトプットするうえでは、これは間違ってないと思います。相手が持っている前提知識や背景を踏まえて、相手に理解してもらうような説明を心掛ける。
でも、自分がインプットするときにもわかりやすさを追求してると、わかることしか頭に入ってこない、わからないことは無視してしまうことになりかねません。
ファーストフードで食事を済ましてしまうようなイメージでしょうか。味が濃くておいしいけど、大して栄養になってない。
読書や勉強といったインプットの作業では、わからないことにこそ自分の幅を広げる、底を深くする余地があるのではないか。「なぜこの本に書いてあることがわからないのか」を考えることで、改めて考えを深めることができ、そこに本質的な課題があるのではないか。
なにが分からないかを、自分の頭で言葉にする。疑問を言語化する。そのとき、読書はかなりの深度を得ているはずだ。(P.111)
答えを探すのではなく、問いを獲得する、そうすれば、おのずと自分なりの答えも出てくるかもしれないし、出てこないかもしれない。答えが出なくても、自分を客観視して、言語化することで、少し自分の気持ちに納得できるかもしれない。そのために読書が必要なのだと思います。
わからなくても食らいついて読むことで、栄養になる
本書の中には「カノン(正典)」として、巻末に百冊の選書が掲載されています。名前は聞いたことあるけど、書名からして難しい本がほとんど。そもそも聞いたこともない本も掲載されています。
物は試しに何冊か購入して、読み進めていますが、やはり難しい。「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」とか、ほとんど何を書いてるのかわからない。
でもそれは本が悪いのではなく、自分の理解力がないから。数十年、数百年、数千年読み継がれてきた名著であることは間違いないのだから、謙虚に本と向き合う。
ごく稀に「お、これはわかる!」という一節があると、少し嬉しくなる。歴史上の偉人と自分が同じことを考えてる!と思うと、少し自分を褒めてみたくなる。
わからないからと言って書店の店頭に平積みされているような、いかにもわかりやすいビジネス書に飛びつくだけでなく、本書に掲載されているような少し口に苦い本にも食らいついて読んでみることで、新たな栄養が得られるのではないかと思います。