司馬遼太郎「城塞」を読んだ感想と教訓

以前の記事で、司馬遼太郎の「関ヶ原」を紹介しましたが、「城塞」はその続編にあたるものです。
「関ヶ原」以上に、人間の悪い部分がにじみ出ている作品だと思います。

目次

司馬遼太郎の「城塞」

城塞」は主に大阪の陣を舞台にした小説です。

「豊臣家をつぶす」──“関ヶ原”から十四年、徳川家康は多年の野望を実現すべく、大坂城の秀頼・淀殿に対して策謀をめぐらす。方広寺鐘銘事件など、つぎつぎと打ち出される家康の挑発にのった大坂方は、西欧の城塞をはるかに凌ぐといわれた巨城に籠城して開戦することを決意する。大坂冬ノ陣・夏ノ陣を最後に陥落してゆく巨城の運命に託して、豊臣家滅亡の人間悲劇を描く歴史長編。 

(Amazonの紹介ページより引用)

徳川家康は関ヶ原の合戦に勝利して天下人となり、それまで天下をとっていた豊臣家は力を失っていきます。

しかし、家康はすでに70歳を超えており、当時の平均寿命から考えると老い先は短く、いずれ自分が死ねば徳川の基盤が傾くことを危惧していました。

一方、秀吉の息子である豊臣秀頼は、まだ20歳ぐらいの若者です。

ある日、家康と秀頼は京都で会談をするのですが、そこで家康は、秀頼が持つ「大将としての覇気」というか、武将としての威厳を感じます。

「このまま秀頼を生かしていては、いずれ徳川の脅威になる」
そう危機感を感じた家康は、豊臣家を滅ぼすことを決めます。

戦をしかけるには大義名分が必要です。

そこで家康がしかけたのが、「方広寺鐘銘事件」といわれるものです。

家康は豊臣家に対し、「全国の寺が老朽化してボロボロになってるから、秀吉の供養のためにも立て直してはどうか」と提案します。

そのうちの一つである京都の方広寺というお寺で、鐘に彫る鐘銘に、以下のような文言がありました。

欽惟 豊国神君 昔年 掌普天之下

前文 外施仁政 前征夷大将軍従一位右僕射源朝臣家康公 天子万歳 台齢千秋

銘曰 洛陽東麓 舎那道場 聳空瓊殿 横虹画梁 参差萬瓦 崔嵬長廊 玲瓏八面 焜燿十方 境象兜夜 刹甲支桑 新鐘高掛 商音永煌 響応遠近 律中宮商 十八声縵 百八声忙 夜禅昼誦 夕燈晨香 上界聞竺 遠寺知湘 東迎素月 西送斜陽 玉筍堀池 豊山降霜 告怪於漢 救苦於唐 霊異惟夥 功用無量 所庶幾者 国家安康 四海施化 万歳伝芳 君臣豊楽 子孫殷昌 佛門柱礎 法社金湯 英檀之徳 山高水長

慶長十九年甲寅歳孟夏十六日 大檀那正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公 奉行片桐東市正豊臣且元 冶工名護屋越前少掾菅原三昌前住東福後住南禅文英叟清韓謹書

この「国家安康」そして「君臣豊楽」という言葉に、家康はケチをつけます。
「家康」という字を2つに分断し、「豊臣を君主とする」という呪いを込めているのではないか、豊臣家は徳川を滅ぼそうとしている!
と言いがかりをつけ、徳川は豊臣を征伐すべく、大阪城を攻めます(大阪冬の陣)。

これに対して豊臣方は、大阪城の弱点である南側に出城を築き、数で勝る徳川を迎え撃ちます。

この出城は、「真田丸」といわれます。
(大河ドラマにもなりましたね)

この真田丸に徳川方はなすすべもなく、徳川方の軍勢は大きく後退します。

家康は武力で制圧は難しいと判断し、和睦をするように持ちかけます。

この和睦の申し出に対し、秀頼は最初「NO」といいましたが、徳川方が放った大砲が大阪城の淀殿のいる近くに放たれ、気を乱した淀殿の鶴の一声で、和睦に至ります。

和睦に伴い、大阪城の周りを囲んでいた濠は埋め立てられ、真田丸も撤去されてしまいます。

そこからさらに家康のいいがかりによって再び大阪に攻め込み、ついに豊臣方は敗北。
秀頼も淀殿も自害し、豊臣家は滅亡します(大阪夏の陣)。

「城塞」から得られる教訓

組織とは、権力を持っている人に左右される

真田幸村、後藤又兵衛といった有能な武将がたくさんいたにもかかわらず、その上に立つ総大将である秀頼は世間知らずで自分で何かを決めることはできません。

実権は、生母である淀殿が握っています。

淀殿は、あくまで天下は豊臣家のものであり、徳川はその家来である、という見方を変えようとせず、現実が見えていません。

補佐をする諸侯も、淀殿の顔色ばっかりうかがっていて、どれだけ真田幸村や後藤又兵衛が献策してもことごとく無視します。

組織にいると、結局は権限を持っている人に組織の命運は左右されます、

部下がいかに優秀でも、トップが無能だと組織は壊れて、部下も滅んでしまいます。

親心は、子どもにとって邪魔になることがある

大阪夏の陣の最後、追い込まれた豊臣勢は、起死回生の手として、総大将である秀頼が前線に立ち、兵士に士気を上げようとします。

しかし、この策は淀殿によって阻止されます。

淀殿にとっては、秀頼は可愛い息子であり、そんな危険な場所に秀頼を出すなんてもってのほか。

結局秀頼が戦場に出ることは一度もありませんでした。

淀殿は息子に秀頼に勇敢な武将になるのではなく、京都の公家のように育ってもらいたいと思い、そのためにあらゆる習い事をさせました。

淀殿の行動は、結果として豊臣の崩壊へと進むのですが、見方によっては淀殿は「子を思う普通の母親だった」と言えるでしょう。

親は、子どものことがいつまでも心配なものです。
できることなら危険なことはしてほしくないし、親である自分の近くにいたほうが安心ではあります。

しかし、それだといつまでも子どもは自立しません。

やがては自分の足で生きていくためにも、親の保護からは離れる必要があります。

しかし、淀殿は秀頼のことを手放そうとせず、秀頼も最後まで母のいいなりでした。

秀頼が女どもなどに育てられずに、堂々たる士大夫に育てられ、公家のまねなどはせず、真夏には野山を駆け、沼にとびこみ、真冬には城外十里の叢林を走って狩りをし、士を愛し、民の苦難を怖れるような人間に育ち上がっておれば、老いぼれた家康と雌雄を決することなど、いと易かったことなのだ。

親の子を思う気持ちは尊いものですが、行き過ぎると親子の破滅にもつながりかねません。

人が見るものには必ず「バイアス」がかかっている

淀殿は、豊臣家こそが天下の主君であり、徳川はその家臣に過ぎないという幻想から抜けられませんでした。

現実には、すでに国の中心は徳川家にあり、江戸が政治の中心になりつつありました。

しかし、淀殿にはその現実が見えていませんでした。

人は同じものを見ているようでも、それをどう解釈するかは人によってバラバラです。

家康がしかける工作に対して、淀殿や大野修理は自分の都合の良いようにしか解釈せずに、その工作のことごとくにひっかかります。

淀殿とはなんであろう。

「一個の感情である」

と、幸村はそれ以外に、淀殿は存在しない、とおもっている。
秀頼と自分だけの豊臣家というものについて異常に肥大化した誇りと、その豊臣家を喪うかもしれないという異常な恐怖心という、この二つの肥大感情以外にどういう心ももっていない。

つまりは化けものではあるまいかとさえ、幸村はおもっている。

人は見たいものしか見ていないし、信じたいことしか信じないようにできているようです。

歴史から学びを得るには

歴史を学校で勉強するのは、受験のためというのもあるかもしれません。

しかし、歴史を学ぶことで、そこから教訓を得て自分の人生の糧にすることが目的であるはずです。

そのためには、年号や歴代将軍を暗記するだけでは意味がありません。

歴史から教訓を得るには、小説やマンガ、ゲームなどで、その時代の出来事を臨場感を持って体感することでしょう。

大河ドラマや小説を読むことで、

  • 自分ならどういう行動をするだろうか
  • なぜこんな結末になったのか

といったことを考える過程で、人生の教訓を得ることができるものと思います。

城塞は上・中・下の三巻あって長いですが、おすすめです。

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▪️編集後記
昨日は昼に奈良の社長やフリーランスの方々とランチ会。
柿の葉寿司がおいしかったです。

▪️娘日記(0歳)
家族3人の中では、娘が一番早起き。5時前に娘の泣き声で目が覚めます。

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